吐露の設計

困っていること、苦しいこと、悩んでいること、躓いたこと、答えのでないこと。

苦味を伴うモヤモヤをどう扱うか。どう素直に言葉にして、その感覚を共有するか。そこからどうやって同じ課題を抱える人と出会うか。

そういう「吐露」を巡る技術こそ、今、広報コミュニケーション活動に必要なんじゃないかと思う。

ポジティブだけが、コミュニケーション?

企業PRとして勤めていた20代の頃、上役から「あなたはすぐ、社内の心配事を口にするけど、そういうネガティブな報告は聞きたくない。ポジティブなことだけ言って」と指導され、モヤッとした。たしかに、当時のわたしは、小さな組織の中で情報の中継局のような役割だったから、過度にネガティブだとチームに伝播してしまう。経営的には正しいコメントバックだろう。

だけど、組織コミュニケーションを任されている者としては反論したかった(できなかったが、するべきだった)。組織や事業のキラキラした外面を整えるのだけが広報担当の役割じゃないはずだ。実態と外面があまりに乖離したら、誰からも信頼されなくなる。良いことばかり言う人は怪しい。優等生すぎると本音で付き合ってもらえない。それは普通の人間関係と変わらないのだ。

光があるから影がある。その逆もしかり。立体的かつ等身大(プラスちょっと背伸びぐらい)で社会の中に立つ。余計な疑いや嫉妬、ミスマッチを起こさないためには、そういうコミュニケーション設計こそ大切ではないか。

実際、人間味をウリにした大手企業のTwitterアカウントは好意的に受け入れられ、「来ないでください」と題した記事を投稿する小さなパン屋に共感が集まり、膨大なバックストーリーを読み物として提供するECサイトがひとつのカルチャーになっている。好き嫌いは別にして、そこには吐露の技術が宿っている。

では、何でも吐露すれば、良いのだろうか?

180617_NKT 0563

吐露することは、難しい

吐露とは技術である。本当に難しいと思う。

ただネガティブなことを言えばいいわけでもない。弱みだけ見せても「だから?」となる。場合によっては、相手にまで嫌な気分を感染させてしまう。広報コミュニケーション活動とは、仲間を増やすためにあるのだから、論理的に、必然性をもって、溢れるほどの気遣いと、石橋を叩きまくる思いやりのもとに、言葉を紡がないといけない。

言葉の使い方、ビジュアルでの繋ぎ方、タイミング、頻度、誰がどこで発するか。

その塩梅を見極めながら、清濁織り交ぜた情報発信を仕掛けていくことを、わたしは「吐露の設計」と呼んでいる。そして、ここ2年ぐらいの個人的なテーマでもある。

企画を立てるとき、他者の原稿を監修/編集するとき、コンテンツを執筆するとき、そして自分個人のメディアを運営するときも、いつもその塩梅に思いを巡らせている。

吐露することは勇気が必要だ。痛みも伴う。でも、本当に共感度の高い仲間が欲しいなら、それは欠かせないことだと思う。

180617_NKT 0042

まずは思考を発酵させる

吐露の手前には、「考察」や「内省」がある。

なぜ今、こう感じたのだろうか。この状況にあるのだろうか。どうしてこちらを選んだのだろうか。どこに向かいたいのだろうか。しっかり考えることが大切だ。

ポジティブな情報発信はスポーツに近い。時流を読んで、高速でアクロバティックに打ち返していく技術。ネガティブな情報を伴うコミュニケーションは、発酵に近い。しっかり待って、面倒をみて、絶妙なタイミングで取り出す技術。

その技術は、実際にやってみることでしか磨かれない。

180617_NKT 0447.jpg

身を切って言葉を吐く

去年7月、わたしは個人サイト『家を継ぎ接ぐ(いえをつぎはぐ)』を立ち上げた。それはまさに、吐露の塊のような、暮らしに関する記録のプロジェクトだ。

東京に生まれ育った自分が、祖父母が遺した千葉の空家に移り住み、その過程で考えたことを書き記していく。地域で生きること、仕事のこと、家族のこと、そして家庭のこと。30代バツイチ女性(という、離婚に関する自身のプロフィールを表に出したのはそれが初めて)としての悩みと喜び。生活、決断、訪れる人々、巻き起こる珍事件。

「皆に嫌われるかもしれない」と怯えながら、そして、異なる家族観・人生観を持つ人のことも(想像の及ぶ範囲で)配慮しながら、一言一句を選んできた。1年間で63記事。ひたすら淡々と、赤裸々に書いてきた。痛すぎて消した記事もある。引いている友人もいるだろう。

だけど結果的には、「郊外に移住してお洒落DIY生活してます。新しいライフスタイルつくっています!」というポジティブなだけの発信よりもずっと、この先の糧となるテーマや仲間に出会えていると思う。わたしが家と家族についてモヤモヤしてきたことを、人と分け合えている手応え*もある。そしてそのことが、自分の芯を強くしてくれた。

『家を継ぎ接ぐ』の手応え=記事に共感してくれた友人によって、住宅シンクタンクの「幸福論」を取り上げた報告書に掲載されたり、ドキュメント映像のプロジェクトが生まれたり、述べ50人を超える人が我が家にやってきたり……と静かに発酵し続けている。

素直な気持ちを言葉にし、相手が受け止められるだろう量と質まで成形していくことは、とてもエネルギーがいる。

「こんなことをわざわざ書いて何になるのだろう。恥ずかしい」と自意識の扱いに困る一方で、「自分の代わりに言葉にしてくれてありがとう。同じことを感じてました」と感想が届くたびに、勇気をもらう。自分のことばかり考えているようで、気づくと案外、他者や社会のことを考えている。

「吐露の設計」とは、内側のものを掘り起こし、観察し、共有可能なコミュニケーションコードに編集しながら、外側に向けて丁寧に開く所作だ。

180617_NKT 0758.jpg

軽やかに、重く

コミュニケーション過多な時代に生きるわたし達は、他者のことばや、嘘や、態度に対して、とても繊細なアンテナを持っている。時折、写真や動画がことばよりも機能するのは、リアリティを担保しやすいからだし、ことばを精査することに疲れたからではないかと思う。

だからこそ、今、重さが必要だ。正直さが必要だ。ちゃんと発酵させ、鍛えた、自分の身を削ってでも伝えたい何かではないと、わざわざ届ける意味もない。

軽やかに、重く。重いようで、軽く。

ちょっとぼんやりした話だけど。「吐露の設計」研究はまだまだ続く。


*写真=黒羽政士さん撮影。千葉の家の「ポートレート」として撮影してもらった。